人はなぜ・・・
「人はなぜ・・・するんだろう?」と悩んだことはありますか?そうしたことを悩んだ人生と悩まない人生ではどのくらい収入に差が生まれるのか。えっと僕にはちょっとわかりません。まあとにかく「人はなぜ・・・?」というのが今回のテーマです。僕とゲストのカモメくんでそれぞれ考えてみました。
『人はなぜタバコを吸うのか』 カモメ
「タバコの臭いは生理的に無理」、「タバコは高いのになんで買うの?」、「タバコを吸うなら周囲へ配慮して!」
非喫煙者や嫌煙家からしたら害虫のような存在。それが喫煙者という生き物。
喫煙者はそんな声にはお構いなしで喫煙所へ向かう。
人はなぜタバコを吸うのか。
その問いに非喫煙者はこう答えるだろう。
「タバコにはニコチンが含まれているから」
確かにその通りだ。でも喫煙者界隈の話を聞いていると単に物質の問題だけではないように感じる。
本稿の筆者もまた喫煙者で、これまで大学や職場で多くの煙仲間と語り合ってきた。
今回は筆者の煙仲間の『声』をいくつかご紹介したい。人がタバコを吸う理由について少し考えてみよう。
1.「なにを吸っているんですか?」
喫煙者の方ならばわかるだろうが、喫煙者には不思議な結束力がある。筆者は現在就職活動中であるが、インターン先で同席していた人を喫煙所で見かけると自然に会話を切り出すことができる。タバコはある種の趣味で、共通の話題に成り得る。
2.「俺の周りの人間が一斉に禁煙したら俺もタバコをやめるよ」
筆者の周りではこの話をよく耳にする。大学の長い講義の後、アルバイトの休憩時間、仕事帰りの一服。いつも同じ時間、同じ場所に自然と同じ顔触れが揃う。日々の愚痴、将来への不安、最近会った面白い話等々。喫煙者たちは毎日同じ人間と顔を合わせ、思い思いの話をする。コミュニティへの帰属意識。喫煙者はタバコを吸うとき、自分が社会集団の一員であることを自覚する。
3.「飲み会あると本数増えるよな」
酒とタバコの相性は最高である。酒が進めばタバコも進む。だが、飲み会でタバコを多く吸ってしまうのには、もう一つ理由があると筆者は考える。それは空白の時間だ。ある話題がひと段落し、つまみに手を伸ばそうとしたが、あまり食べたいものがない。手持ち無沙汰になったとき、喫煙者はタバコに火をつける。飲み会中に訪れる空白時間の数だけタバコは減っていく。
4.「タバコを吸う理由?やっぱかっこいいからだろ」
本稿を読んでいる方はそのように思うだろうか。禁煙ブームの漂う昨今において、この価値観は前時代的なものになりつつあるかもしれない。それでも好きなアーティストやキャラクター、著名人がタバコを吸っている姿は様になると筆者は思う。タバコに火をつける瞬間、タバコの持ち方、煙の吐き出し方。一つ一つの仕草がその人の個性だ。個性が露出する瞬間、その人の生き様を目の当たりにする。そこに憧憬の念を抱くのは至極当然ではなかろうか。
5.「喫煙者なんて底辺だよ」
喫煙者同士でよく言うフレーズだ。吐き捨てるように言う。社会のはみ出し者であることに酔いしれ、自分なんてと自虐する。その瞬間が心地良い。人間は常に前を向いて生きているわけではない。時に立ち止まり、振り返りながら人生を歩む。まともな人間じゃないという自覚が返って心の支えになるのだ。
いかがだっただろうか。非喫煙者にとって喫煙者は理解しがたい存在だ。今日も社会の片隅で喫煙者はタバコに火をつける。「俺なんてさ」と呟いていたら、いつもの顔ぶれがやってくるのだ。
※本稿は喫煙を助長する意図で書かれたものではない。
『人(僕)はなぜ山に登るのか』 原島大郎
最近僕は中国の山に登ってきた。街でマウンテンバイクを700円ぐらいで借り、GPSがうまく作動しないgoogle mapをたよりに走ってきた。市街地から山を越えた隣町までは片道40キロほど。なので「まあ、いけるべ!」と軽く考えていたらけっこう痛い目にあった。中国にはまだ舗装されていない道がけっこう残っていて、その道の間はマウンテンバイクといえども自転車を押して歩かなきゃいけないのだ。だから予想よりすごく時間がかかったしパンクしないか常にひやひやしていた。それと僕は自転車での山登りが初めてで、こんなに自転車で坂を登ることがきついことだとは知らなかったのだ。ツール・ド・フランスの選手みたいにピュ〜っとはもちろん登れず、上り坂でセコセコとペダルをこぐ僕の身体はすぐに疲れてしまうし、いくらこいでも全然自分が上に登っている感じがしない。スタンドをしたまますごくギアの重いペダルをこいでいる感覚だ。しまいにはひたいから汗が滝のように湧き出てきてTシャツはびしょびしょになる。
というような話をすると周りの人は首をかしげて「どうしてまたわざわざ汗までかいて山に登るの?」と聞く。当然の質問だ。山を登ったら誰かが僕を「よくやったな!」と褒めてくれるわけでもないし、登った先に絶景が待っているわけでもない。(もちろん幾らか迫力のある景色は見れるが)ではどうして僕は山にわざわざ辛い思いをして登るのか。
それは僕が山登りという行為が作り出す“とりあえず登るしかない(あるいは降りるしかない)”という状況に惹かれるからかもしれない。もう少し具体的に言うと目の前の道を歩くしかない状況。スポーツジムみたいに「まっ今日はこのへんでええかな」と途中で家に帰ったり、コンビニに寄って新刊のジャンプを買ったりはできない状況。(少なくとも中国の山では)さらにポケットの中のスマホも山の中では電波が届かない。そうなるとあとは目の前の道を進んでいくしかないのだ。
今僕が生きている時代は蒸し蒸しとしたサウナの中にいながらスマホで友人とチャットをすることができるし(実際に僕が知り合ったスイス人の女の子は中国の人はみんなサウナでスマホをいじっていたよと教えてくれた)また今の時代は家の中でも外出中でもいろんなことができる。日々の生活の中で「とりあえずこれだけをやるしかない」という状況はほとんどない。そういう意味でこの山登りという行為が作り出す限られた選択肢しかない状況というのは今の時代からするとかなり特殊なものかもしれない。そして僕はときどきそうした特殊な状況に、炊飯器に入れっぱなしのご飯をラップに包むとかいった選択肢を全部ぽいっと放り捨てて、自分を置きたくなるのだ。それが僕の山に登る理由だと思う。
次回は2回目の取材記事です!!どうぞご期待を